私の保育園の嫌な思い出
こんにちは。学校の先生です。
今日は私と息子の間におきた話を書きたいと思います。
今年の3月に卒園し、4月から小学生になります。
保育園では、卒園式の練習が始まり私を相手に卒園証書?の授与の練習をしたり
♪さよなら僕たちの保育園♪
を歌ったりしています。
みなさんは保育園の卒園式で泣きましたか?
私は泣きそうな予感がします。
私との練習で三方に礼をしたり、卒園証書を立派に受け取る姿を目にするだけウルウルとしてしまいます。
赤ちゃんだったのに。
我が息子は、1歳ちょっとで保育園に預けました。
預けた初日は泣いた気がしますが、他のお子さんよりも親との別れを惜しむ姿はさほど見られませんでした。
毎日、嫌がることもなく通っていました。
自分の子どものころと比べると随分楽しそうに見えました。
私の保育園の思い出話。
保育園に入って一番の衝撃は、自分が可愛くない、ということでした。
保育園に入る前は、家の中が私のザ、ワールドでした。
父親に「お前はほんとうにかわいい」とずっと言われていました。
「おにんぎょさんみたいだ」とも。
だから私は自分がずっと可愛いと思っていたのですが、保育園に入ってびっくり!
もっとかわいい子がたくさんいる!むしろ私は可愛くない方だ!
ということに気づいたのです。
二重瞼に薄茶色の長い髪の毛をしばっている女の子たち。
対する私は一重瞼に、カラスのような黒髪のおかっぱ。やや地黒。
衝撃でした。。。
そして
私の保育園時代は、マウンティングがありまして。
子供たちは
かけっこの早さ、
誕生日が早い、
何歳からこの保育園に入っているか、
髪が長いか、
可愛いか、
本能的に強そうか弱そうかをかぎ分けて
一番強そうな男の子と女の子は「隊長」と呼ばれていました。
そして私は「奴隷」と呼ばれていました。
いじめられることもありませんでしたが、
隊長の許しがないと、お絵描きでは絵の具のピンク色は使ってはいけないとか、リボンを描いてはいけないという暗黙の決まりがありました。
私は、許しを請うこともせず、限られた色でお絵描きをしていました。
回転ジャングルジム、という遊具がありました。
地球儀みたいなジャングルジムでクルクル回るやつです。
こちらも遊び方に決まりがありました。
一番てっぺんに隊長が乗ります。
偉い順にジャングルジムに乗って、最後、奴隷の私たちは何をするかというと、一番下でジャングルジムを回転させるのです。
それなりに奴隷時代を私は楽しめていたのですが、自己肯定感がかなり低くなりました。
自分は何もできないやつ、自分はあらゆる能力が低い、と強く思い込んでいました。
小学校に入って、少しずつ平等になって、奴隷から解放されました。
教科の学習が始まり、私は100点ばかり取ったり、絵を描けば金賞をとったり、作文はコンクールに選ばれたりしました。
隊長たちよりも良い成績をとることが不思議でした。
それでも自分は頭が良いと思うようになったのは、ようやく中学生になってからです。成績が順位として表されるようになったからです。
毎回学年で1位をとってようやく自分は頭が良いのだ、と思うようになりました。
周囲も私は頭が良いと認識するようになりました。
幼少期の刷り込みはすごいですね。
でもいまだに、私なんかが幸せで良いの?
人に甘えて良いの?
誰かを頼って良いの?
って思っているときがあります。
潜在意識の中に、まだ奴隷だった自分がいるのかもしれません。
覚えていることは、お昼寝でなかなか眠れずに寂しい思いをしたことです。
すごく覚えていることは
1つ年上の姉がいて、保育園では精神的にものすごく頼っていたのです。何か助けてもらった記憶はないのですが、姉が同じ保育園にいることはものすごく心強かったです。
姉が年長の時、私は姉が保育園を卒園することがとても寂しかったです。
いつでも、ずっと、物陰から姉を見ては卒園することが寂しくて泣いていたのを覚えています。
姉と同じ学年に双子の姉妹がいて、その2人が年長さんの隊長的存在でした。
その双子が私はとにかく怖くて怖くて仕方がなくて、双子が卒園していなくなることは大歓迎だったのですが、姉がいなくなることは本当に嫌でした。
私が年長のときの一番記憶に残っている出来事は、牛若丸の絵本の読み聞かせでした。先生が一度読んでくれて、私はそのお話がとても気に入りました。
もっとなんどでも読んでほしい、と思っていましたが読んでもらえなくて、その絵本をただ眺めて、読めない字を見て「あぁ、この本を読みたい!」と思っていました。
小学校になって、ひらがなを覚えて改めて牛若丸を読んだ喜びを覚えています。
何度も何度も読みました。
牛若丸、かっちょ良すぎです。
しかも天狗が稽古をつけてくれるなんて!
身のこなしの軽やかさと、クールな感じは進撃の巨人のリヴァイ兵長、鬼滅の刃の富岡さんに通じるものがありますよね。
この文を書いて気付きましたが、私がリヴァイ兵長と富岡さんにときめく理由は牛若丸にあったのですね。
その当時の牛若丸の絵本は、「のちに弁慶は牛若丸の家来となり。。。」という含みを持たせた終わり方で、その後が無茶苦茶気になる終わり方でした。
当時はネットもなかったのでずっと私は牛若丸のその後が気になっていたのでした。
そして、小学校4年の時に「源義経物語」に出会います。
本を数ページ読んで、この義経があの牛若丸だったことを知ります。
夢中で読みました。
勧進帳のあたりは嗚咽して
最後の奥州平泉のあたりは胸をかきむしるほどの悲しさと悔しさを感じました。
この本の最後もまた含みがありますよね。
「そののちにチンギスハーンとなって。。。」と読者に希望を持たせるのです。
ちょっと話がそれましたが、以上が私の保育園の思い出です。
卒園式にお下がりでないジャンパースカートを着れたことがうれしかったです。
肌の色が黒くて、白いタイツがやけに浮き立っていたことも覚えています。
親戚のおばちゃんが私の保育園の頃の話をよくしてれました。
私は全く覚えていないのですが
雪が降るとても寒い日におばちゃんがたまたま私をお迎えに来てくれました。二人で手をつないで帰ったのですが、ふとしたときに私がおばちゃんに
「おばちゃんの手、あったかいね」と言ったそうです。
その一言が忘れられないのよ~とよく言っていました。
小さい子どもの何気ない一言って、すごく心に残りますよね。
今日はつらつらと自分の思い出を語りました。
最後までおよみいただきありがとうございました。
皆さんの心が明るく軽く温かく元気になりますように。
温もり慈しみのエネルギーで満たされますように。