子育て専門家の頭の中

療育の専門家です。こどものこと、発達障害、知的障害、肢体不自由のこと、ときどきスピリチュアルについて日々の気づきを書きます。読んだ方のお役に少しでも立てたら幸いです。

亡き父から教わったこと 受け継いだ正の遺産

こんにちは。ブログへのご訪問ありがとうございます。

今、私は勉強しています。

高い受講料を払って勉強しています。

馬鹿高いので、

教わったことは自分だけのものにせず

このブログで公開していこうと思います。

 

金曜日教わったことは

一日の24時間を

誰かのために使うことを意識しよう、

ということです。

誰かのために時間を使うようになると

人生が変わっていく、

というのです。

上手に説明できないのですが、

要するにそういうことです。

 

誰かのために時間を使う、という言葉で思い出したのが私の父親でした。

今日は父親の話をしたいと思います。

3年前に他界しました。

 

父親は、ちょっと変わった人で、かつ、厳格でお酒が好きな人でした。

 

漫画みたいな話があって

兄と姉は小学校1年生でスキーを始めました。

始めた場所が、

スキー場の第1ゲレンデのてっぺんです。

第1ゲレンデと言っても、

そのスキー場は狭いから勾配がきつく、

素人には厳しいスキー場でした。

第1ゲレンデは、

下が見えないくらい最初の坂が急で

すごく怖いんです。

コブもいっぱいあります。

 

スキー板を初めて付けたばかりの子どもに

とにかく、滑って降りろ。

 

兄も姉も泣きながら滑ったと何度も聞かされ

私は小学校1年生のスキーデビューがとても怖かったです。

 

なぜか私は第1ゲレンデデビューを逃れ、

怖い思いをせずに済みましたが

やはり父親は変わっていたので

ある日のスキーの帰りは

「お前ら、滑って帰ってこい」

と言われ、

スキー場から家まで

スキーで滑って帰らされました。

 

私をスキーに連れてって」の時代です。

バブリーな青春を楽しむ若者が、

こぞってスキー場へ向かうので、

スキー場までの道路は行きも帰りも渋滞です。

そんな若者の好奇に満ちた視線を感じながら

私たちは道路や藪の中を滑って家まで帰りました。

 

また兄と姉の話ですが、

テレビのチャンネルを争ってけんかをしたら

「そんなにテレビが見たいならずっと見てろ」

と言われ、

テレビの前に座らされて

夜中までテレビを見せられたとか、

寝そうになるとスリッパで頭を叩かれたとか、

そんな恐ろしい出来事もあったそうです。

 

兄がお仕置きで裏の畑の木に縛り付けられると

姉と一緒に助けに行き、

私が夜、家から追い出されると

兄と姉がこっそり窓から私を家の中に入れてくれました。

 

父も母も仕事で忙しかったで

話を聞いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がありません。

子どもたちは家畜に近かったな、と思います。

食べ物と着るものを与えて、

学校に行かせるのが精一杯。

そんな時代です。

 

イチゴは専用のスプーンでつぶして砂糖をかけて食べました。

水筒の麦茶にはお砂糖が入っていて、

すごくおいしかったです。

 

 

父にまつわる怖い話は他にも沢山あるのですが、

そんな父親に育てられた子供がどうなるかというと

困ったことがあっても、

親には相談しなくなります。

殻ができて、その中で生活するようになりました。

 

自分の話は聞いてもらえない

自分の希望はかなわない

困っていても助けてもらえない

そんな経験を重ねていたから

親との会話や対話を避けるようになりました。

 

思春期の頃は

「お前は何を考えているのかわからない」

と親によく言われました。

てめーらのせいだ、と思っていました。

 

そして子供たちは18歳になると全員、

家を出て遠くで生活を始めました。

閉じこもっていた殻が窮屈で

自由になりたかったからです。

知り合いが誰もいない、

自由な世界にあこがれていたのです。

 

いよいよ家から出る数日前に

父親が言いました。

「いいか、親はサーカスの命綱と一緒だ。

 失敗して、高いところから落ちても

 絶対に助けるからな。

 わかったか。」

この言葉はとても心強かったです。

 

月日が経ち、

私たち兄弟も大人になって家族を持ち、

父親、母親になりました。

やっと父親のことを理解して

いろいろお酒を飲みながら話ができるようになりました。

 

何を理解したか。

あの、頑固さ、厳格さ。

父親は、毎日朝から夜遅くまで

私たちを育てるために

一生懸命働いていたのです。

 

誕生日プレゼントがなかったのは

やさしくなかったわけではなく、

お金がなかったから。

精一杯の家族サービスが

私たちをスキーに連れて行くことだったんです。

 

胃潰瘍になりながらも

お正月以外は働いていました。

 

すごいな、と思います。

私はシングルマザーで

家のローンも抱え

毎日8時間働いているけれど

体を壊すほど自分を酷使していません。

 

私たち子どもを育てるために

人生の多くを費やしてくれたのだと思います。

ありがたい。

お父さん、ありがとうございます。

 

父親は、ジョン・レノンと同じ

1940年の10月9日に生まれました。

戦時中に生まれ、

戦後に米軍の飛行機を追いかけて

マッカーサー!俺の服を返せ!」

と叫んでいたそうです。

 

世界中から注目され

キャーキャー叫ばれ

女の子を気絶させたことはなく

 

歴史に残る音楽も名言も残してはいません。

 

でも銃で撃たれなかったし、

沢山の孫に囲まれてお酒を飲む父親は

ジョン・レノンに負けず劣らず幸せな人生だったのではないか、と私は思います。

 

そして私たち兄弟は

父親の思いを引き継いで

必死に自分の子どもを育てています。

 

笑っちゃうくらい

兄も姉も貧乏です。

 

でも私たち、頑張って子供を育てています。

 

父親を超えるくらい

子どものために

誰かのために人生をささげたいな、

ささげなければと思います。

 

そうすれば、

ジョン・レノンに負けず劣らずな人生を

送れるかもしれません。

 

とりとめもない文章になってしまいましたが

誰かのために時間を使う、

というキーワードで思い出したのが父親で

父親との思い出を綴ってしまいました。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

やさしさとか

愛を送る相手がいるって幸せですね。

 

皆様のが心やさしさで満ちますように。